山城ガールむつみ 多古出陣のススメ

いざ、出陣!多古の山城へ!

こんにちは!歴史&山城ナビゲーターの山城ガールむつみです。 今回は「ふっくらたまこ」ちゃんと一緒に多古の魅力をお届けします! たまこちゃんは多古町で生まれ育った新米かあさん。2020年のゆるきゃらグランプリでは全国8位になったんですよ! では、魅力たっぷりの多古の山城に出陣しましょう!

山城ガールむつみプロフィール
歴史講師、歴史&山城ナビゲーター。多古城郭保存活用会アドバイザー。
山城、歴史イベントや講座を多数開催。数多くの御城印デザインも手がけ、地域活性の起爆剤として「山城」めぐりの楽しさを伝えている。
SNSは「山城ガールむつみ」で検索。
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多古は「多湖」と書くともいわれ、「海」「湖」を連想させる水運の要衝地です。そのため、名族千葉氏の領地になり、中世においては下総国の中心的な重要地でした!!
「多湖」だけでなく、並木城の並木は「浪来」、志摩城の志摩は「島」ともいわれていて、多古を歩いていると、かつて多古に入り込んでいた海が広がる景色が目に浮かぶようです。
なんて面白い!なんて魅力あふれる場所!多古ってすごい!

そうなのよ、むつみさん!多古っていいところなの~。
私も一緒に出陣するわ~。いざ、出陣ね!

多古はこんなに面白いところ!

かつて九十九里浜から湾が入り込んでいた多古は、古代から交通の要衝でした。
丸木舟が出土していることからも水運が発達していた地であったことがうかがえます。
古代にはたくさんの古墳が造られ、力を持った豪族が住み、文化が発展していきました。
平安時代になると、かつての海が肥沃な湿地となった多古は「千田荘」という荘園になり、平安時代末期以降は千葉氏が千田荘を領地とし、勢力を拡大していきました。
そして鎌倉幕府が滅亡し、南北朝時代になると、千葉氏の内紛などで戦乱が増え、「並木のふけ」では、"舟いくさ"が繰り広げられたことが記録に残ります。
「ふけ」というのは湿地帯のことで、現在は多古光湿原として、その湿地であった名残りをとどめていて、町内に流れる「借当川」「栗山川」「多古橋川」からも、かつて海が入り込んでいた太古の姿を想像することができます。
幾度となく戦いの舞台となった多古には天然の要害である台地や山、丘を利用してたくさんの山城が築かれました。
500年ほど前に自らの領地を守り、統治するために築かれた山城が今も多古にはたくさん残っています。そして、私たちを歴史ロマンの旅に誘って(いざなって)くれるのです。

多古町コミュニティプラザに展示されている丸木舟。
栗山川流域遺跡群から出土しました。なんと、国内でも最大級の7m45cm!!
約5500年前の縄文時代前期の終わり頃の丸木舟で、一本の木をくりぬいて作られています。
この丸木舟からも水運が発達していた多古の太古からの姿が想像できますね。

多古は水上交通だけでなく、佐原への街道(多古街道)も通り、陸上交通の要衝地でもありました。
そのため、歴史の舞台になり、たくさんの山城や砦が築かれたんですね。
なんと!多古だけで、30を超えるお城が!すごーい!

多古にそんなにお城があったなんて知らなかったわ!
ところで、みなさ~ん!多古米って知ってる?
多古米は天皇家への献上米にも選ばれる最高のお米なのよ。
多古がかつて海だったおかげで、ミネラルが豊富で美味しいお米ができるのよ~。
農家のみなさん、ありがとう~♡

多古米のおいしさの秘密にも歴史あり!「おかずのいらない米」の称号をもつ多古米、食べてみてください。
なんて面白い!なんて魅力あふれる場所!多古ってすごい!

多古町コミュニティプラザには丸木舟のほかに、多古城郭保存活用会作成の並木城の復元鳥瞰図なども展示されています。
ぜひ立ち寄ってご見学ください。

多古とゆかりの深い「千葉氏」ってどんな一族?

千葉氏は桓武平氏から分かれた一族で、上総・下総国を本拠地として全国各地に広がり活躍しました。千葉常胤の時代に、源頼朝が平家を討つために挙兵。その際、千葉氏は頼朝とともに戦い、鎌倉幕府の設立に尽力し、武功をあげました。その恩賞として、上総国と下総国に領地をもらい勢力を拡大し、比類なき名族へと成長していきました。
下総国千葉荘(千葉市)、下総国千田荘(多古町)などを領地とし、鎌倉幕府において重要な職を担いますが、元寇のときに千葉氏当主頼胤が九州で戦死すると、関東に残っていた分家が宗家に対抗するようになります。
そして、南北朝時代になると、一族同士が戦い、結果として千葉氏の宗家は肥前国小城郡(佐賀県小城市)へ移っていきました。
この肥前国小城は承久の乱(1221年)の功で千葉氏が幕府から拝領した土地です。その九州の地でも千葉氏は国衆として乱世を生き抜きました。
関東に残った分家が宗家となり、関東の動乱期を迎えますが、享徳の乱(1454年)に際し、また一族が分裂。宗家に取って代わった分家の馬加(まくわり)康胤の一族が本拠地を本佐倉城に移し、千葉氏当主となって戦国時代へと突入していくのです。
小田原北条氏が勢力を拡大すると、千葉氏は北条氏に属します。そして、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏とともに戦い没落するも、江戸時代には旗本になって存続しました。

千葉氏の通字は「胤」!
みんな「胤」がついてるからややこしいわ~。
でも、この「胤」の文字が千葉一族の証なんだね!

多古にはたくさん妙見神社があります。
これは千葉一族の「妙見信仰」の名残りなんです!
いまでも、多古で千葉氏の存在を感じることができますね。
妙見信仰は北斗七星、北極星を祀るため、
千葉氏の家紋は北斗七星を表した「月星」と「九曜」です。かっこいい!

千葉氏と多古はどういう関係?

古は平安時代には「千田荘」という荘園でした。桓武平氏の出である千葉氏の当主、千葉常胤やその子供たちが頼朝の旗揚げに協力した恩賞として、千田荘を領地としたのが多古と千葉氏の関係の始まりです。それ以来、千葉宗家の領地のひとつとなり、多古には居館や城が築かれました。
千葉氏当主の中でも多古にゆかりの深い千葉胤貞は「千田殿」と呼ばれていて、このことからも千田荘と千葉宗家との関係の深さがわかります。胤貞は多古の久保に居館を築いたといわれ、その周辺には胤貞ゆかりの城館が伝わっています。
さらに、享徳の乱に端を発した千葉一族の内紛では、千葉宗家が多古に逃げ込み、当主胤直、その子宣胤らが奮戦の末、滅びました。
最後の籠城地として選ぶほどに、千葉氏にとって多古がどれほど重要な地だったかが推察できます。

※注釈
千葉宣胤(のぶたね)について
千葉宣胤は千葉宗家当主胤直の子で、享徳の乱の際に多古城で奮戦した人物です。名を「胤宣(たねのぶ)」と記述する書籍もあり、諸書によって異なりますが、多古城郭保存活用会では『本土寺過去帳』『千葉大系図』に記述されている「宣胤」を採用しています。

多古と千葉氏の関係がわかったところで、
山城に行ってみよう~!

出陣するわよ~!
おーっ!

「多古城」千葉宗家嫡男宣胤、自刃の城!

多古城は現在多古台バスターミナルがある台地に築かれた千葉氏の城です。
開発により、大部分が壊されましたが発掘調査が行われ、一部の遺構が見学できるように残されています。
享徳の乱に端を発した千葉氏の内紛が享徳4年(1455年)に起きると、多古城は歴史の舞台となりました。
千葉氏当主胤直とその子の宣胤(のぶたね)の居城であった猪鼻城(千葉市)が、叔父の馬加(まくわり)康胤に攻撃されたのです。胤直、宣胤父子は猪鼻城を脱出し、多古へと逃れてきました。
そのときに宣胤が籠もり奮戦したといわれるのが、多古城です。必死に防戦するも力及ばず、宣胤は多古城を出て、付近の阿弥陀堂で自刃しました。
名族千葉氏宗家が滅びる舞台になったひとつが、まさにここ多古城なのです。
その後も要衝地であるがゆえに、多古が幾多の合戦の舞台となると、多古城も改修整備されながら利用されたと考えられます。
多古妙光寺に寄進された鰐口から、天正5年(1577年)には千葉氏の一族と考えられる牛尾胤仲が城主だったことがわかっていて、これにより、多古城が戦国時代を通して城として使われていたことが推察できます。

開発により、大部分が崩されてしまったものの、大規模な空堀や曲輪、物見台・腰曲輪などが残っていますよ。

東京駅八重洲口から高速バスに乗ると、多古城が築かれた台地(多古台バスターミナル)に着くから便利なのよ~。

多古台バスターミナル。 東京駅八重洲口からの高速バス、空港第二ビル駅からのシャトルバスともに多古台バスターミナルで下車できます。駐車場もあるので、バス、車ともにアクセスしやすいです。 写真の小山が多古城城山です。開発によって崩されてしまいましたが、一部の遺構は残されていて、戦国の山城を体感できます。 多古城が築かれたこの台地周辺は、「多古台遺跡群」として発掘調査されていて、竪穴式住居跡が700軒以上検出されていて、縄文時代から平安時代にかけて集落が形成されていたことがわかっています。その後、千葉氏に関連する居館や城が築かれたのでしょう。

案内板に導かれて空堀へ!

畑の間を進みます

空堀がどーんと姿を現しました! 多古城は、1991年-1998年にかけて発掘調査され、多数の掘立柱建物跡が発見されました。その際、発掘した空堀からは畝も発掘され、空堀がなんと障子堀となっていたことがわかりました。戦国時代に城として使われていた多古城の姿が浮かび上がってきたのです。 写真で見る空堀の下には今でも畝堀が眠っています。

これが空堀なのね!
土を掘って敵の
侵入を防ぐ仕掛けなのね~。

さらに堀をクランクにすることで、横から的に矢を射かけることができるんだよ。こういう造りを「横矢掛かり」「横矢」などというよ。

現地案内板。赤い星印が現在地です。青に塗られているのが空堀。クランクして掘られているのがわかります。 次に案内板の赤丸箇所に行ってみましょう。

遠くから見ると少しこんもりしてます。

なにやら案内板が。「多古城物見台跡」と書いてあります! この台地の突端に物見台が置かれていたんですね。

こんな平場になっていて、城下が一望できます。 ここに櫓などが設けられて、水路、陸路などを見張っていたかもしれませんね。 さらに案内板があって「多古城跡虎口」の文字が。

むつみさん、虎口ってなに?

虎口(こぐち)というのは、お城の出入り口のことだよ。

ほんとだわ!
矢印の方向を見ると、
道があるわ!

ほんとだね、
当時の城へ入る道が
こうやって今も残ってるんだね!

多古城の台地は開発で壊されたものの、丁寧に見ていくと当時の名残りを見ることができます。台地には腰曲輪(こしぐるわ)がめぐらされていて、腰曲輪によっても防御性を高めていたと思われます。 康生元年(1455年)、当時千葉氏当主だった胤直、宣胤父子が討ち死に、胤直の弟胤賢も討たれましたが、その胤賢の子である実胤と自胤(のりたね)は多古を脱出し、武蔵国に落ち延びました。 実胤は石浜神社(東京都荒川区)周辺に逃げて石浜城を構えたとされ、自胤は赤塚城(板橋区)に入ったとされています。 そして、その系統が武蔵千葉氏となり、千葉氏宗家奪回のための戦いを繰り広げることになるのです。

多古台バスターミナルにこんなお城と歴史が眠っていたなんて知らなかったわ~

アクセスしやすいし、ぜひ多古城にいって歴史を感じてね!

「志摩城」 千葉氏宗家当主胤直、奮戦の城!

栗山川流域の低地にまるで「島」のように浮かぶ台地が志摩城です。縄文、弥生、古墳時代の竪穴式住居などが検出されていることからも、古代から人々の生活があった重要な台地であることが分かります。
九十九里浜から入ってくると、多古の入り口に位置する志摩城。
水運の最重要地にあたるここ志摩城で千葉氏宗家が滅びることになる合戦が繰り広げられたのです。
享徳の乱をきっかけに、享徳4年(1455年)、千葉氏当主胤直は本拠地の猪鼻城(千葉市)を叔父の馬加(まくわり)康胤に攻められます。
そして、息子の宣胤(のぶたね)らと猪鼻城を脱出し、志摩城に籠りました。
胤直は志摩城に籠もり戦うも力及ばず、宣胤は多古城に籠もり奮戦するも自害。多古にて千葉宗家が滅亡することになるのです。

千葉宗家が滅びる舞台になった志摩城。
多古はそれほどの重要地だったんだね。

知らなかったわ~。多古の歴史はなんて深いのかしら~。

志摩城へは道の駅多古あじさい館を起点にすると行きやすいです。 空港第二ビル駅からシャトルバスがでてます。 ここから志摩城へは歩いて30分弱。あじさい館にはレンタサイクルもありますのでご利用ください。

志摩城遠景。 志摩城を遠くから眺めると、水田にポカンと浮かぶ「島」さながらです。面白い地形も楽しもう!

志摩城内には八幡神社があります。ここから上がれます。 上がる前にこの鳥居の右手へ。矢印のほうです。

行ってみるとこんな空間! 平場があって、その先は緩い坂で城内には入れるようになってます。 八幡神社の階段は参道整備でつくられたものですので、志摩城への登城路はここかもしれません。平場は枡形になっています。

志摩城に上がってみると、すぐに主郭に到着。現在は一面の畑になってます。

志摩城から景色を楽しみましょう。並木城も見えます(黄色矢印の下あたりです)。 並木城周辺では南北朝時代に「舟いくさ」が繰り広げられているので、この辺り一面が海、もしくは湖沼などだったのでしょう。 ちなみに赤矢印のあたりが、中世に「並木のふけ」と呼ばれた深い湿地帯で、現在は多古光湿原という全国でも貴重な湿原植物の群落となっています。

志摩城は遠くまで見渡せるので、九十九里方面や栗山川流域の水運などに思いを馳せることができます!想像するって楽しい!

ここで「舟いくさ」してたなんてびっくりだわ~。この辺では古代の丸木舟も出てるし、本当に水運が発達していた地域なのね~。

志摩城は「塙台遺跡」として県指定史跡になっています。塙台遺跡は縄文時代から古墳時代の集落が確認されていますが、さらに面白いのは弥生時代初頭の再葬墓が64基も見つかっています。これは関東最大規模の群集墓で、この台地がいかに古代から水運の発達した場所として人々の生活が営まれていたかがわかります。 そして、中世には千葉氏の所領として千葉氏関連の居館や城が多古には築かれました。 戦国時代が幕を開けると、千葉氏の内紛で歴史の舞台になった志摩城。千葉氏当主胤直らが籠もり、必死に戦ったのです。 今はのどかな田園風景の中に浮かぶ志摩城ですが、ここで繰り広げられた関東動乱のうねりをぜひ現地を訪れて感じてください。 では、続いて、志摩の集落のほうに歩を進めてみましょう。

この台地が志摩城の主郭とされる「塙台」。下を通る道を挟んで手前に「二ノ台」といわれるエリアがあります。現在、二ノ台は「島集落」となっています。 塙台と二ノ台の間には水路が入っていて、船着き場もあったと伝わります。

島集落には「島」というバス停も! まさに、多古の入り口に浮かぶ「島」にふさわしい集落名ですね。

集落を歩くと、民家を囲むように土塁がめぐっています。このあたりには志摩城に関連する武家が住んでいたともいわれています。

ここも道に沿って土塁が。 かつて屋敷があった名残りなのでしょう。

島集落は独特な雰囲気になっています。 四方八方に路地があり、小道などもたくさん!

いたる箇所に辻があり、方向感覚を失います。

分かれ道ばかり!迷路にみたいだね。初めて来たら迷っちゃう!

気をつけないと、同じ場所を何度もぐるぐる回っちゃうわよ~。

実は島集落は、迷路のような道が張り巡らされているだけでなく、もっと不思議なモノがあるんです。 それはなにかというと…。

民家の裏には何やら怪しい抜け道が! そう、各所に抜け道、抜け穴が造られています。

ここにも抜け道!

ここにも! 垣根に切れ目を入れて、隣の家と行き来ができるようになっているのです。

ほんとだわ~!すぐにお隣の家に行けちゃうわ~。お醤油を借りるときとか便利だわね。 なんでこんなにワクワクする抜け道があるの~?

それはね、江戸時代の宗教弾圧が関係してるんですよ。

島集落のほぼ真ん中にある正覚寺。 実は、このお寺が抜け道に深く関係しているのです。この寺は日蓮宗不受不施派で、不受不施派というのは、「法華経を信じない者から布施を受けず、法華経以外の僧に施しをしない」という宗派。 権力者から布施を要求されても断る宗派のため、江戸幕府からは禁教とされて弾圧を受けました。実は江戸時代、島はこのお寺を中心として、この不受不施派の人々が暮らす集落でした。そのため、取り締まりに際し、役人が来た場合などに備えて、抜け道や抜け穴が集落のいたる所につくられたといいます。 各家にも隠し階段や、隠れるため工夫された部屋などがあったと伝わります。

この抜け道は島の人々が幕府から弾圧されて苦しんだ名残りなのね~。
そうやって島にはたくさんの貴重な歴史が残ってるのね~。

集落には、千葉氏が信仰していた妙見社なども残り、歴史の深さを感じさせてくれます。

妙見神社。

※各家の抜け穴は私有地につき立ち入り禁止です。  見学の際はお気をつけください。  なお、妙見神社の裏に見学可能な抜け道があります。

島集落photo by齊藤小弥太

「並木城」城下で「舟いくさ」が繰り広げられた城!

鎌倉幕府が滅亡した後、足利尊氏、後醍醐天皇、足利直義などの様々な勢力が戦いを繰り広げ、各地の武家たちもそれぞれについて戦い、 全国でたくさんの合戦がおこなわれました。並木城もそれらの戦乱に際して築かれたと考えられています。
1330年代には多古も南北朝の戦いの舞台となり、城下の「並木のふけ」にて舟いくさがあったことがわかっています。
さらに並木城は、栗山川、借当川の水運の要衝として、水運権利確保の拠点としての役割を担っていたことが推測できます。
多古が要衝地ゆえに、たびたび戦乱の舞台になると、並木城も改修整備されながら戦国時代の城へと取り立てられていったと考えられます。

驚くほど良好に遺構の残る並木城!
戦国の城の姿をぜひ楽しんでください!
城内には見事な土塁と堀が残り、折れをともなった空堀は見ごたえ十分です。

山の中にタイムカプセルのように残る当時の堀や土塁。
ため息が出るほどロマンチックだわ~。

並木城へは道の駅多古あじさい館を起点にすると行きやすいです。
空港第二ビル駅からシャトルバスがでてます。
ここから並木城へは歩いて30分弱。あじさい館にはレンタサイクルもありますのでご利用ください。

並木城遠景。
台地の突端に並木城が築かれました。
麓の水田地帯は、湖沼が広がっていたと思われ、舟で並木城にアクセスできたのではないでしょうか。

並木城城下町。
ほのぼのする案内板もあります。

並木城下町は城山の麓をぐるりと囲むように展開しています。
ふらり歩くと、あちこちに残る長屋門に圧倒されます。
かつては7つの長屋門があったとされ、今でも5つの長屋門が私達を迎えてくれます。
長屋門は家格を示すものであり、これらからも並木に存在したかつての武家の姿が垣間見えます。
そして今でも城下には、並木城の家臣団であったとされる「飯田」姓が多く存在し、中世から脈々と歴史が繋がっていることに感動します。
一説には当時は麓まで水が来ていたといい、この家臣団の屋敷は江戸時代以降に城山の中腹から麓に移ったともいわれています。

長屋門の屋根裏には昔から舟がしまわれていたという家が多く、並木城が水運を機動力とした城であることがわかります。
さらに、中世の湊を意味する「船戸」という字名も残っていて、城下を歩くとイメージも膨らみます!

城下には並木城家臣のご子孫たちがいまも暮らしているのね~。
感動だわ~。

城下町を歩いて並木城に向かいます。

途中、光明寺というお寺がありますが、このあたりに城主か重臣の屋敷があったともいわれています。

畑を抜けて並木城の主郭手前に到着。
標柱が目印です。
すでに目の前に堀が広がり、土塁がそびえています。

行く手を阻まれて、
これじゃ進めないわ~。

2重に堀が掘られていて、土塁が目隠しになっていて城内が全く見えません!
目隠しの土塁を築くために、わざわざ2重に堀を掘って土を盛ったのかもしれないね。

ちなみに並木城には新たに案内看板が設置されました!
お城の整備がどんどん進んで感激です!

主郭に繋がる土橋。

むつみさん、土橋ってなぁに?

土橋っていうのは堀を掘ったときに、橋状に掘り残して通路にした土の橋のことだよ。
だから土橋の両側は掘られて堀になってるんだよ。

堀。
水が引き込まれてないので、「空堀」ともいいます。

木漏れ日を浴びて美しい並木城の空堀。
こんな美しい光景ですが、敵を防ぐための仕掛けが施されているのです。
黄矢印の方向に空堀が続きますが、わざと屈曲させて敵の進行を妨げます。奥が見えないので、心理的な効果もありますね。
さらに、赤矢印の土の高まり、じつは物見台と考えられています。ここから空堀を通る敵を見張ったり攻撃したりしたのでしょうか。張り出しを設けることにより、「横矢」が掛かるようになっていて攻撃性を高めています。

物見台に上がってみると…。
空堀が見下ろせ、下を通る敵に対して簡単に攻撃できそうです。

家臣屋敷が並ぶ根小屋方面からの虎口。枡形になっています。
並木城は多古の中でも保存状態も良く、戦国の山城を存分に楽しめます。
城内には枡形虎口も設けられていて、しっかり造り込まれた城であることが見て取れます。

枡形虎口から城内を眺める。
左右、正面の土塁に囲まれていて、ものすごい威圧感を感じます。

四方八方から矢や石が飛んできそうで怖いわ~。

ほんとだね!こうやって守りを固めて敵を防いだんだね。
当時の人々の息づかいも聞こえてきそう!

並木城は空堀や土塁が良好に残り、タイムスリップ気分が味わえます。
わかりやすい造りなので、山城めぐりを始めたばかりの人でもとても楽しめます。

戦乱の時代には、多古でも幾度となく戦いがおこなわれ、たくさんの城や砦が築かれました。

並木城は多古城郭保存活用会が整備を進めています。
地元の宝である歴史と山城。後世に伝えるべく、保存し、活用していきたいと考えています。

ぜひ、並木城に遊びにきてね。
お待ちしてるわ~。

並木城内photo by齊藤小弥太