多古城郭保存活用会とは
 多古町は栗山川を中心とする水運と佐原街道等による陸上交通の要衝として古くから重要視されてきた町でした。中世期には千田荘といわれる荘園であった多古は、千葉一族による、有力な支配地域となり、多数の宗教施設や居館が町内に建立されました。多古を領地のひとつとした千葉一族は、一族内の争いも多く、享徳の乱(1454年)においては、内紛が起き、千葉宗家が滅びました。その際に歴史の舞台になったのも多古だったのです。

 戦国期には多古を巡る争いも一層激化し、こういった経緯を背景として、多古町には中世・戦国期の城郭が30以上も存在し、まさに「山城の町」だったのです。しかしながらこの素晴らしい資源がなかなか活用されずに、貴重な歴史が埋もれていました。多古城郭保存活用会は、まさにこういった「山城の町」多古の特性を活かすべく、町内外の有志が集まり2019年12月に結成されたもので、町内の眠っている山城を「放置すれば藪。活かせば魅力」をスローガンに整備を進め、単に町内の山城遺構の保存だけではなく、活用も積極的に策することをテーマとして、取り組みを行う団体として活動を始めました。

 そして、並木城、中城の整備、その他、各お城への標柱や説明板の設置を行うとともに、歴史講師・山城ナビゲーターの「山城ガールむつみ」さんに会のアドバイザーに就任いただきました。そして、むつみさんのデザインによる多古町内の主要なお城の「御城印」を発行するプロジェクトを開始。「2021年6月には12城の御城印を発行する「日本一の御城印の町」多古となり、さらに同年12月には、「日本初のお城開き」を行った物見台城の御城印を発行し、多古城郭保存活用会が発行する御城印数は都合13城となりました。これは、我が国の町制を行う自治体の中で、もっとも御城印数の発行が多い町であるわけです。多古城郭保存活用会としては、さらにこの数字を伸ばすべく、町内の城郭整備に鋭意、取り組んでいます。

並木城 復元鳥瞰図

中城 復元鳥瞰図

並木城 主要部縄張図

中城 縄張図

日本城郭史学会委員 大竹 正芳氏 作

 2020年末には、パシフィコ横浜で開催された「お城EXPO」にも、千葉県下で初の出展を行い、好評を博しました。これらの取り組みにより、多古への来訪者、訪城者は確実に増加してきております。
 こういった一連の行動は、すでに「町おこしモデルケース」として、地元新聞の「千葉日報」(2020年10月 19日朝刊)からも報道されており、多古城郭保存活用会は県内外から注目を集める団体に成長してきております。

 多古城郭保存活用会は、地元の山城を活かす活動を通し、まさに今や新たな国策ともなってきた「文化財の保存と活用」を現場で実践し、それを積極的に地方創生に活かす団体として、地域でのリーダーシップを引き続き取っていきたいと考えております。
 今後とも、皆様からのご支援、ご鞭撻、何卒よろしくお願いいたします。

多古城郭保存活用会
(2021年3月記)

多古の歴史
中世千葉氏宗家終焉の地
 千葉氏一族の勢力が下総一帯に及んでいた中世、多古は千葉氏の荘園「千田荘」の中心地でした。千葉氏の勢力が全国に及び隆盛を極めると一族間では争いが度々起き、「千田荘」もその戦の舞台となりました。南北朝期の千田荘動乱(1335~1341)では、土橋城周辺を中心に、並木城や志摩城が戦場となりました。その後、室町時代中期の享徳の乱では、千田荘が千葉氏宗家終焉の地となりました。千葉家当主胤直は、同族の原胤房・馬加康胤と戦うことになります。康正元年(1445)、胤直は原胤房に千葉城を急襲されて、千田荘に逃れて再起を図りましたが、両軍の攻撃に多古城、志摩城ともに落城しました。胤直は土橋城の一角にある東禅寺に逃れましたが、すぐさま敵勢に包囲され一族郎党とともに自刃し果てました。東禅寺境内西側の墓地にある五輪塔7基は、胤直ほか一族の墓と伝わり、現在でも地元の人たちに懇ろに供養されています。
 このように、中世千葉氏と深いつながりがある多古町内には、千葉氏の居城だったと考えられている多くの山城をはじめ、数多くの史跡や歴史資料が遺されています。

戦国時代の多古
 千葉氏宗家が滅ぶこととなった享徳の乱は、関東の戦国時代を告げる幕開けとなりました。千葉氏宗家を滅ぼした馬加一族は、その後馬加系千葉氏として、本佐倉城(千葉県酒々井町)を本拠として、下総に覇を唱えますが、やがて後北条氏の傘下に入ることとなります。こういった環境の下、多古においては、在地の領主が何度か変わりますが、多くの期間を後北条氏の影響下におかれたことは間違いなく、中世からの山城の多くも、戦国期の城として、改変がなされます。その代表的な遺構として畝堀が発掘されている多古城の空堀や並木城の二重土塁、枡形虎口などがあげられます。天正18年(1590年)の小田原の役により、後北条氏が滅びると、お城はすべて廃城となり、その役目を終えました。