多古城のご説明
多古台バスターミナルの東側の台地に占地する城跡です。 築城年代については、明確ではありませんが、1455年享徳の乱の際中に、千葉宗家の若武者千葉宣胤が籠り奮戦したお城です。また戦国期には、現在多古町内の親社大神に祀られる牛尾胤仲が城主となり、多古の治世を行ったお城でもあります。御城印デザインのご説明
多古城跡では、1991年から1998年にかけて行われた発掘調査により、戦国期の畝堀の存在が明らかになりました。この畝堀は、その後の開発により、惜しくも失われましたが、今も城跡には、畝堀の延長上に折れを伴った技巧的な空堀、帯曲輪、物見台跡、虎口等が良好に残っています。 御城印においては、この発掘により見つかった畝堀の姿を当時の写真をモチーフとして表現するとともに、千葉氏、牛尾氏の家紋を配してデザイン化をいたしました。志摩城のご説明
志摩城は享徳の乱の際、千葉胤直が籠り、子息の宣胤が籠った多古城ともども、馬加康胤、原胤房らによって攻められ、千葉宗家が滅びる現場となった歴史上重要な戦国・中世城郭です。 現在、城跡には、塙台、二ノ台と言われる東西2つの郭や、この2つの郭に挟まれた舟着場と見られる場所、枡型虎口等の遺構が良好に残っています。御城印デザインのご説明
志摩城は城跡だけではなく、城下の島集落と一体化された浮城的総構えを有する中世期の防衛遺構と捉えられる城郭であり、地名の「島」は、水田の中に浮かぶ独立丘陵を言い表したものといえます。 ちなみに、この中世期の形態が良くあらわされた江戸期の島全体の古地図が多古町には伝わっており、御城印においては、この古地図をモチーフとして表現を行うとともに、千葉氏の家紋を配してデザイン化しています。並木城のご説明
並木城は、多古町南並木地区の台地の南端に占地する戦国・中世城郭であり、記録等によれば1330年代から戦国期末まで城郭として利用されていました。 現在城跡には、南側に土塁と空堀で囲まれた部分があり、主郭と考えられています。 主郭の北側の折れを伴った土塁と空堀の二重構造、南東側の巨大な二重の枡形虎口、南側の帯曲輪等の遺構は特に秀逸であり、多古町内にある戦国・中世城郭の中では、もっとも保存状態の良い城郭と考えられています。御城印デザインのご説明
1330年代に生じた北朝方と南朝方の争いの際、並木城直下の「並木のふけ」(現在の多古光湿原辺り、「ふけ」とは湿原・沼沢地をあらわす)において、「ふないくさ」が行われたと考えられる記録が残っています(「悟円書状」)。並木城の大きな役割として、栗山川、借当川等の水運の要衝にかかわる権利確保があり、そのための拠点城として、当時より並木城は機能していたのではないかと考えられます。 御城印においては、並木城の復元鳥瞰図をモチーフとし、水運、水辺をイメージする青色を主体としてデザインを行うとともに、1330年代、北朝方として並木城と深い関係を有したと思われる千葉胤貞の家紋を配し構成しています。久保城のご説明
久保城は、千葉氏宗家当主千葉胤貞(1288年-1336年)が居館として築いたものと伝わります。多古の中心ともいえる中村に創建された古刹日本寺の古文書にも、胤貞の居館は「久保(窪)」にあったと記されています。久保城は土地の伝承と古文書からも、「千田殿」と呼ばれていた胤貞の存在を裏付ける重要な城といえます。 同じく中村の分城や中城は、久保城を守る防衛拠点として胤貞が築いたとされています。 平安末期から、多古は「千田荘」という荘園の中心地で千葉氏の領地でした。千葉氏は源頼朝に助力し、鎌倉幕府の成立に大きく貢献、そして勢力を拡大していきました。 しかし、鎌倉幕府が滅亡すると、千葉一族も足利尊氏派と後醍醐天皇派に別れて戦いました。胤貞は尊氏派につき、後醍醐天皇派についた従弟の貞胤と争いました。そのような中で多古も戦の舞台となり、多くの城が築かれました。 戦国期に入り、また戦乱の舞台となった多古の城は整備拡張されて使われていたと思われます。久保城周辺には土塁や空堀などの遺構が残っています。御城印デザインのご説明
久保城は、中世には湖沼等低湿地帯が広がっていた栗山川流域を見下ろす台地の西端に築かれました。久保城の直下には、栗山川から日本寺がある中村の台地に向かって谷津が入り込みます。久保城は、まさに中村の台地の入口に当たる要衝地ともいえます。現在の久保集落のある台地全体を取り込むように館を構えたと思われます。 御城印には、久保城周辺の地図をデザインし、千葉氏の家紋「月星」を配置しました。 また、千葉氏は承久の乱の功で肥前国小城郡(佐賀県小城市)を領地としていました。胤貞の祖父頼胤、父宗胤が元寇に際し九州に異国警護番として赴くと、胤貞の叔父である胤宗とその子貞胤が本領の下総国の実力者となったため、胤貞は本領の千田荘と小城の統治に腐心しました。千田荘では中村を中心とし、自らが帰依していた日蓮宗寺院を厚く保護しました。 そして、領国経営を始めた小城では、東国文化を持ち込み、九州千葉氏の祖となりました。小城には九州千葉氏ゆかりの城跡や寺院などが今でも残り、その歴史を今に伝えてくれます。御城印には、その小城にある九州千葉氏の菩提寺「松尾山光勝寺」に残る胤貞座像を描きました。玉造城のご説明
玉造城は栗山川東岸に位置し、その支流常磐川との合流域を北に望む樹枝状台地の先端に築かれています。小丘ながらも三方を急峻な崖に囲まれた天然の要害となっています。郭、腰曲輪、空堀、土塁などの遺構が残っており、現在残る南北二つの郭から、直線的に連なる連郭式城郭の姿が推測できます。 北側の郭には土塁が良好に残り、南西隅には八幡神社が祀られています。八幡神社の高まりは櫓台と思われ、南側郭との間の空堀と合わせて、守りを固めているのが見てとれます。 この城の築城者等詳細は不明ですが、弘安年間(1278年~1287年)に野平伊賀守常弘が城主であったと伝わり、南北朝期においては、千葉胤貞による日本寺防衛のための北側の要塞として整備された可能性も指摘されています。 天正16年(1588年)に城主だった野平常義は城を明け渡し僧になったとも伝わりますが、戦国期に野平氏は小田原北条氏方に属していたとされ、城跡には天正18年4月没の常義の墓碑も残っています。そして、同年の小田原合戦で北条氏が豊臣方に敗北すると、玉造城も開城となりました。御城印デザインのご説明
城下には「宿」という小字名が残っていて、街道が通り、城下が形成されていたことが推測できます。また、「門場」という屋号を持つ家があることからも、そこに城の木戸があったことが推測でき、当時の城の姿が浮かんできます。それらのことから、御城印には江戸時代に描かれた絵図をモチーフにしました。「伊賀守居城」や「大手」などの文字も見てとれます。また、櫓台が玉造城のシンボルと考え、現在、八幡神社が建てられている現地の景色をデザインしました。 小田原北条氏の敗戦で城が明け渡しとなった際、野平氏の佐良姫がさらわれそうになったのを佐竹義重が助けたという伝承が残り、佐良姫は税のかからない免祖田をもらい庵を立て、暮らしたといいます。その地は今でも「サラ免」という名で呼ばれているといい、土地には玉造城を偲ぶ伝承が色濃く残ります。次浦城のご説明
次浦城は、栗山川の支流である沼田川沿いの台地上に築かれました。現在、この台地上には、次浦の集落が広がっています。標高は約30mほどで、周囲には自然地形を人工的に加工した形跡が見てとれ、北側は切り立った崖となっています。 この台地の北西側一郭には、土塁と空堀で囲まれた方形の区画が残っています。この辺りは地名(字名)を「城山」といい主郭と思われますが、城域全体が集落と重なっているため、その他の城郭構造は不明です。しかし、周辺には城郭に関連する「馬場小屋」「内小屋」「土橋」「馬場道」などの字名が残り当時を偲ばせます。 築城年代や城主は不明ですが、次浦八郎常盛の居城だったとも伝わり、この人物は千葉常兼の弟、粟飯原五郎家常の4男であることから、千葉一族との関連が指摘されます。 多古は「千田荘」とよばれる荘園で、千葉一族の支配地でした。千葉宗家当主の胤貞は「千田殿」と呼ばれていて、千葉宗家と多古が密接に関係することがわかっています。鎌倉幕府滅亡後に多古の土橋城周辺で起きた「土橋合戦」には次浦氏も関わっていて、この次浦城を拠点に戦いに臨んだと思われます。また、次浦氏は土橋城下にある東禅寺の大旦那だったことも金沢文庫古文書からわかっています。 その後もたびたび多古が戦いの場になると、次浦城も城郭として拡張整備されていったと考えられます。御城印デザインのご説明
次浦城から800mほど西方に次浦八郎常盛の館と伝わる居館跡があります。このことから次浦の台地周辺一帯を次浦氏が治めていたものと推測できます。 その居館跡近くの山中に「矢指塚」といわれる塚があります。これは、後三年の役で源義家に従い出陣した次浦常盛が戦いに勝利し戻った際に、戦場で使わず残った矢を記念に埋めた、もしくは前九年の役の凱旋の際に、義家が上総の海岸に100本の矢を1里ごとに突き刺しながら戻ってくる途中、この次浦に最後の1本を埋めた記念の塚とも伝わります。 次浦の台地に城館が築かれたことから、台地の地図をモチーフにし、千葉一族の家紋「九曜紋」を配置しました。そして、矢指の伝説にちなみ「矢」をデザインしました。中城のご説明
中城は多古町南東部の中村地区に位置し、中村小学校の東方、借当川に開けた谷津に突き出た舌状台地に築かれました。周辺の台地は、「中村の台地」とも呼ばれ、鎌倉時代や南北朝時代に開山された古刹正東山日本寺や正峰山妙興寺、竹林山妙光寺などがあり、まさに多古の中心地ともいえます。 千葉氏宗家当主だった千葉胤貞(1288年-1336年)がこの台地上に「中城」という城を築いたとも伝わりますが詳細は定かではありません。「中城」いう地名は、谷を隔てた諏訪神社側の台地上にも残っていて、台地全体を広義の意味での「中城」とする考えもあります。いずれにしろ、中村の台地全体が要衝地であり、戦国期に改修整備が施され、重要な防衛拠点として使われたと考えられます。 現地には、方形の郭や虎口、土塁、腰曲輪などの遺構が良好に残っています。御城印デザインのご説明
中城の築かれた中村の台地には、鎌倉時代から日本寺をはじめとする日蓮宗寺院が建てられ、北総一円の日蓮宗の布教拠点となっていました。千葉氏宗家は熱心な日蓮宗徒であり、このことからも千葉氏宗家と多古の関係の深さが分かります。 日本寺には全国から多くの学僧が集まり、慶長4年(1599年)になると、僧侶の学問所として後に関東三大檀林に数えられる「中村檀林」の開講となりました。 御城印には、中世からの重要地に築かれた中城の縄張図を中心にデザインするとともに、千葉氏の家紋である「月星」を配置しました。土橋城のご説明
土橋城は、栗山川西岸沿いの南北に伸びた台地先端に築かれています。この地は水陸交通の要衝で、栗山川という水運の幹線と、城下を走る佐原への街道(多古街道)という陸上の幹線を押さえるための場所だったと考えられています。 隣り合う谷筋にあり、土橋城とも深い関係をもっていた土橋山東禅寺は、鎌倉幕府以来の名刹である金沢山称名寺(横浜市)と繋がりが深く、中世において房総半島でも中心的な寺院でした。土橋城はその東禅寺の出入り口をも見張る役目も担っていました。 南北朝時代に千葉氏は一族で分裂し、南朝方の千葉貞胤と北朝方の千葉(千田)胤貞が従兄弟どうしでありながら争うことになりました。この南北朝の争乱では「土橋合戦」といわれる戦いが土橋城で繰り広げられたことが「金沢文庫文書」に残ります。 その後も「享徳の乱」に端を発した千葉宗家滅亡の戦いにも土橋城は関連したと思われ、まさに交通、政治、経済等の最重要地だったのです。 現在、土橋城の南側、栗山川を見下ろす台地南端の高まりに、千葉氏の信仰である妙見様が祀られていますが、その高まりは水陸の街道を見張る物見台だったと考えられています。遺構としては薬研の堀や、その堀と食い違いに掘られた堀も確認されており、南北朝の争乱から戦国期へと時代が進む中で堅固な城へと改変されていった土橋城の姿が想像できます。御城印デザインのご説明
土橋城の城下には「船渡」という地名が残っており、今は水田になっている土橋城の周辺は、中世においては船が行き来できる立地であったことが推測できます。 さらに土橋城と一体を成している東禅寺は、中世には房総の中心的寺院であり、各地からたくさんの産物などの行き来があったと思われ、その荷の上げ下ろしがされる湊が土橋城の眼下にあったと考えられます。 そのことから御城印には土橋城が築かれた台地の遠景をデザインし、入江を描き、船を浮かべました。さらに地形の分かる地図をモチーフにし、千葉氏の家紋「月星」を配置しました。分城のご説明
分城は、中世には湖沼等低湿地帯が広がっていた栗山川流域を見下ろす舌状台地の先端に築かれました。築城年代や城主は定かではありませんが、居館が「窪(久保城)」にあったとされる千葉氏宗家当主千葉胤貞(1288年-1336年)が防衛拠点として分城を築いたとも伝わります。 主郭と推測される方形の区画には、千葉氏の守護神である妙見神社が祀られており、その周囲には土塁や空堀、物見台が良好な形で残っています。妙見神社の社は、文政年間に今の場所に移されたといい、それまでは「一の屋敷」といわれる分城の東側周辺に置かれていたと地元では伝わっています。 主郭をめぐる土塁はほぼ一周しており、途中に張り出しが設けられていて、横矢が掛かる構造になっていますが、今に残る城の姿はいつの時代のものか定かではありません。 南北朝時代、胤貞は北朝方につき、南朝方についた従弟の貞胤と戦いました。そのような中で多古も戦いの舞台となり、その騒乱が下総国に広がっていきました。分城周辺でも戦闘行為が繰り広げられたのではないでしょうか。御城印デザインのご説明
分城は小城ながらも、かつての広大な低湿地帯の名残りである栗山川を見下ろすことができ、水上交通の要衝だったことが見てとれます。これは、千田荘(下総国匝瑳郡・現在の多古町周辺)を領地にしていた千葉氏宗家当主胤貞が築いたとされる伝承にふさわしい眺めといえるでしょう。 御城印には分城の城山の姿と、かつて麓近くまで迫っていたであろう湖沼をデザインしました。そして、千葉氏の家紋「月星」を配置し、分城の縄張図をモチーフにしましました。 胤貞は日蓮宗に深く帰依しており、胤貞が創建した日本寺をはじめ日蓮宗の古刹が今でも多古には多く残っています。中世から変わることなく歴史が引き継がれている多古の実り豊かで美しい自然の残る風景を描きました。松崎(まつさき)城のご説明
松崎城は多古町の東、常盤地区の東松崎に築かれました。日蓮宗寺院である勝栄山能満寺を中心とした、舌状台地全体に広がる城です。 松崎城の周囲には栗山川の支流が流れていて、城があった当時は湿地に囲まれていたと考えられます。 現在、台地の大部分は寺院や人家が広がり、かなり改変されているため城の構造は不明です。しかし、比高20mほどの台地は切り立ち、周囲には大きな土塁や曲輪、また虎口と思われる遺構が点在し、小丘に築かれた要害であることが見てとれます。 地元では「物見塚」と呼んでいる高台もあり、見張りのための施設があったことが想像できます。 城域の中心に建つ能満寺は、寺伝によると天文5年(1536年)に日運上人が開いたといいます。日運上人は正木氏に連なる人物で、松崎城の歴史は不明ながらも、千葉一族の領地である多古に、里見氏、正木氏の勢力が入り、何らかの関係を持っていた経緯があったことが考えられ、水陸の要衝であった多古の中世における重要性が浮かび上がってきます。御城印デザインのご説明
日蓮宗勝栄山能満寺は日運寺(南房総市)と同山一寺で、日運寺を開いた日運上人が隠居寺として多古に創建したといい、江戸時代に日運寺から独立して能満寺となりました。また、能満寺は日蓮聖人の誕生した地に建てられた誕生寺(鴨川市)の隠居寺としての役目もあり、日蓮宗にとって重要なお寺でした。 御城印には、松崎周辺の地図をデザインするとともに、松崎城の中心に位置する能満寺の貴重な鐘楼門(町指定有形文化財)をモチーフにしました。これは山門の上に鐘楼を乗せた珍しい造りで、天保9年(1838年)に村人たちによって建立された門です。松崎城が機能していた当時も能満寺、もしくは能満寺の建つ平場は城の一部として使われていたと思われます。 あわせて、多古を所領としていた千葉氏の家紋「月星」と、能満寺に伝わる正木氏の家紋「三引き両」を配置しました。土やぐら城のご説明
土やぐら城は多古町の南東部、中村地区の借当川流域を臨む台地の先端に築かれました。この台地の中央を走る「中城坂」を挟んで、北西300メートルほどの位置には物見台城(物見台跡)があり、中村中央の台地へと続くこの坂を物見台城と連携し、監視していたと思われます。土やぐら城の構造は判然としませんが、物見台城と一体となって機能することで効力を発揮したのでしょう。櫓台、土塁が今も現地に残り、かつては堀がめぐっていたとも伝わります。 この二つの城が築かれた台地の西側は、中村中央の台地に向かって谷(相ノ谷)が深く切れ込んでいます。さらに南から東にかけては借当川とその支流の平野部に接しています。土やぐら城は、この周辺地域の水運掌握のための監視所的な役割を担わされていたと推察できます。 借当川の上流部は、かつての椿海に通じ多古周辺地域の水運の要衝であり、香取地方へと繋がる街道も存在したことから、借当川流域が水陸交通の要衝だったことがわかります。治承4年(1180年)の源頼朝旗揚げの際、房総半島から立て直しを図る頼朝側に対し、平家方として戦いを挑んだ藤原(千田)親政の居館も借当川上流にあったとされ、この流域は古代より開けた重要な地域だったのです。御城印デザインのご説明
多古町には、江戸時代に描かれた土やぐら城の絵図が残っています。絵図には、「土やぐら」という名称の語源となったと思われる櫓台のような高まり(圡屋くら)や土塁が描かれており、それらは現存する遺構の形態とほとんど変わっていません。土やぐら城は小規模な城郭ながらも、400年以上前の城の姿を今に伝える大変貴重な城郭遺構といえるでしょう。 御城印には、その絵図をデザインするとともに、多古町中村地区とは特に歴史的かかわりの深い千葉氏の家紋「月星」を配置しました。そして、土やぐら城は監視所として機能していたと考えられることから、櫓をイメージし、表現しました。多古藩陣屋のご説明
多古藩陣屋は、現在の多古第一小学校周辺の小高い場所に築かれました。 多古は、古くから名族千葉一族ゆかりの地で、享徳の乱に端を発した一族の内紛で千葉氏宗家が多古で滅ぶなど、中世を通して下総国内で重要な地でした。 天正18年(1590年)に小田原北条氏が豊臣秀吉に攻められ、戦国大名として滅亡すると、徳川家康が関東に入封しました。そして、多古には家康家臣の信濃高遠城主保科正光が入りましたが、関ケ原の戦い(1600年)後に正光は加増され高遠藩に移ったため、多古藩は一時廃藩となりました。 寛永12年(1635年)に8千石の旗本松平(久松)勝義が、上総国武射郡と下総国香取郡に所領をもらい、多古に陣屋を構えます。これが多古藩陣屋のはじまりです。そして、延宝8年(1680年)に家督を継いだ勝義の九男勝以(かつゆき)は加増を受け、1万2千石の大名となり、多古藩が再び立藩されました。以後、久松松平氏が多古藩領主として存続し明治に至ります。 当時、陣屋の敷地は板塀や石垣で囲われていましたが、現在は多古第一小学校の校庭となり、陣屋前面の石垣の一部がわずかに残るだけです。しかしながら、全国的に石垣が築かれた陣屋は珍しく、このことからも多古藩1万2千石の威光が想像でき、この陣屋が多古藩の政治の中心地であった往時が偲ばれます。御城印デザインのご説明
多古藩陣屋の御城印には昭和8年に描かれた多古町の鳥瞰図をモチーフにし、町の風景を描きました。あわせて、江戸時代に発行された『下総名勝図絵』に描かれた多古藩陣屋の表門遠景もデザインしました。 久松松平家の家紋「星梅鉢」、さらに「六つ葵」を配置しました。久松松平家は徳川家から葵の紋の使用を許されていました。物見台城のご説明
物見台城は、多古町の南東部、南中「鴻巣集落」周辺の台地に築かれ、その台地が広範囲にわたり城郭化されたと考えられます。物見台城の西側には「相ノ谷(あいのやつ)」を挟んで中城があります。この相ノ谷は中村中央の台地に深く切れ込んだ重要な谷戸のため、物見台城と中城で相ノ谷を挟み、連携しながら監視を行っていたと考えられます。また、物見台城の東側には「中城坂」を挟んで土やぐら城があります。この坂道は、中村中央の台地へと通じる重要な街道であったと思われ、物見台城と土やぐら城が連携して監視を行っていたと推測できます。御城印デザインのご説明
物見台城の御城印は土やぐら城を含め、台地全体を利用して築かれたことが分かる縄張図をモチーフにしました。あわせて、城の名前の由来になった「物見台」に建つ物見櫓をイメージしました。この物見台は土やぐら城(物見台)と連携していたと思われ、この両方の物見台の位置を示すため、該当箇所を黄色で色付けしました。そして、千葉一族ゆかりの地である多古の城郭には千葉氏が深く関わっていたと思われるため、千葉氏の家紋「月星」を描きました。物見台城がある中村地区には千葉胤貞の伝承が多く伝わり、胤貞創建の寺院が数多く残っています。大島砦のご説明
大島砦は標高32mの丸山及びそこに繋がる北西側台地の基部に築かれました。現在、丸山の山頂には熊野神社が鎮座しています。城郭遺構は確認できないものの、東側先 端には人工的な平場があり、栗山川を見下ろす位置に当たることから、櫓台の可能性も考えられます。御城印デザインのご説明
大島砦の東側を流れる古代からの水運の大動脈である栗山川は、大島砦付近で多古橋川に分岐、さらに志摩城付近で借当川に分岐します。まさに、大島砦と志摩城は3本の河川を掌握する場所に位置しており、古代からこの地域の水上交通の要衝地であったと思われます。大島砦の御城印は、大島砦、志摩城の位置や、多古橋川、借当川、栗山川および明治時代においても残っていた湖沼(現在の多古光湿原)がわかる地形図をモチーフにしました。次浦八郎常盛館のご説明
次浦八郎常盛館と呼ばれる城館は、次浦集落から西に外れた次浦字大 峰の杉林の中にあったとされます。周囲の地形を削り出して館を造営したと 思われ、現地には雛壇状の平場が残っています。御城印デザインのご説明
次浦城は千葉一族次浦氏の居館とされていますが、それ以前は藤原親政 の館があったとも伝わっています。藤原親政は「千田親政」とも称され、 千田庄領家として下総国に下向していました。親政の居館は内山(匝瑳市) と次浦にあったと伝わっていることから、千葉一族次浦氏が次浦に入り居 館を築く以前は親政の館が次浦にあったと考えられています。その親政の 居館が次浦八郎常盛館の前身とも指摘されています。